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本日4回目の更新です。記事の見逃しにはご注意ください。
今日は全体的に短文が多く、記事を読むにもそこまでお時間は取らせないと思います。 さて、今回のタイトルは藤堂高虎です。 ご存知の方は知ってる、ご存じで無い方は知らないといった知名度でしょうか。 今回はこの藤堂高虎について少し語りたいと思います。 知らない方はこれを機会に歴史に興味を持っていただければ幸いです。 藤堂高虎は近江出身の戦国武将です。近江といえば…現在の滋賀県ですね。 そして伊勢国津藩の初代藩主でもあります。 藤堂家といえば明治維新の際の行動が問題視されてあまり評価されていない家ですが…。 この際、そこは子孫が勝手にやったのでスルーします。 藤堂高虎という名前は知らなくてもこの言葉は知っている人も少なくはないと思います。 「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」 確か彼が生前に残した言葉です。 意味としては…そのまま、武士であるなら主君を7度変えろ…でいいと思います。 多分、変えろというより変えても問題無いよ的な発言だとは思いますが。 その言葉が表す通り彼は度々主君を変えている事で有名です。 主に浅井氏、豊臣氏、徳川氏などです。 試しにウィキペディアで藤堂高虎を調べてみてください。 右上の主君の欄が凄いことになっています。 さて、戦国時代に疎い方等はこう思いませんでしたか? 「主君を変える…しかも7回なんて節操のないとんでもない奴だ!」と。 無理もないですね。武士といえば武士道などで忠義に篤いというイメージがありますからね。 でも実は藤堂高虎の行動は戦国時代ではごく普通の行動なのです。 武士は忠義に篤い、このイメージが確立されたのは江戸時代に入ってからです。 そもそも武士という言葉自体が戦国時代にあったのすら分かりません。もしかしたら江戸時代に入ってからかもしれません。 戦国時代では主君が自身の働きに対して正当な評価をしてくれなければ主君を変えるという事はよくあることでした。 ただ、家を退去する際に殺傷事件などを起こしていれば追手を差し向けられることもよくあることです。 事実、高虎は自分に対して正当に評価してくれた豊臣秀長、徳川家康には忠臣として仕えています。 そんなわけで今回は意外と知らない戦国時代の常識についてお話ししました。 ただ、主君を変えてもいいのは身分の低い人間のみで、重臣などが主君を変えることは謀反、変節といわれます。 さて、私は藤堂高虎という武将が好きです。理由としては3点。 一つは私が住んでいる滋賀(近江)出身であること。二つは優秀な人間であったこと。 三つは信長の野望・革新というゲームで強くて顔グラがカッコよかったこと。 えっ、生き方に感銘を受けたとか、戦場での活躍に心打たれたとかじゃないの?と思いますよね。 でも私ぐらいの世代の人間が戦国武将に興味を持つ理由なんてゲームが主な理由です。 ただ、私の場合は入ったのはゲームからですが、様々な書物などを読んで正しい知識は身につけています。 ゲームから入るなんてとんでもない!という意見の方もいますが、歴史に興味を持ってもらえれば私はそれでいいと思います。 大切なのはゲームで興味を持った後にその人物について詳しく調べるかどうかだと思います。 調べたのであれば貴方は立派な歴史マニア、調べないのであればにわかファンです。 さて、ここまでは高虎個人というより戦国時代に対する考え方のようなことはお話してきました。 ここからは高虎個人の活躍に舞台を移したいと思います。 高虎の歴史は姉川の戦いに始まります。 姉川の戦いで活躍したことにより主君の浅井長政から感状を受け取ります。 その後、仕えていた浅井氏は織田信長によって滅ぼされます。 高虎は浅井旧臣の阿閉氏、磯野氏の元に身を寄せますが合わなかったのかすぐに退去します。 なお、私が以前に読んだ小説だと浅井氏を滅亡する以前に退去しています。 理由は同僚を殺したことが原因だと書かれています。 その後は織田信長の甥である津田信澄という人物に仕えますが、長続きはしませんでした。 その前後に羽柴秀長という人物と接触し、彼に仕えることになります。 そして高虎は彼の元で武功を挙げ異例の大出世を遂げることとなります。 羽柴秀長の兄は皆さんご存じ豊臣秀吉です。 天下人の親族である秀長を主君に持ったことが高虎の出世の追い風となります。 また、追記しておきますが秀長も当然兄の身分が上がるにつれ彼自身も出世をしますが、決して兄の七光ではありません。 彼自身も非常に有能な人物で、彼の死は豊臣政権の滅亡を速めたとまで言われています。 残念なことに主君である秀長は死んでしまいます。 それまでは秀吉から見れば高虎は陪臣という立場でしたが、秀長の死をきっかけに秀吉に直接仕えることとなります。 なお、秀長の養子である豊臣秀保に関しては説明を省かせていただきます。 そして主君である豊臣秀吉が亡くなり世にいう関ヶ原の戦いが幕を開けます。 高虎は徳川家康率いる東軍として参陣します。 高虎は関ヶ原の戦場でも活躍し、更に敵将に対して調略を行っていたため高評価を受け、家康より今治20万石を与えられます。 その後は江戸幕府、徳川幕府が始まります。 高虎の主君である徳川氏によって世の中は治められました。 彼は家康の信頼も篤く、伊賀一国、並びに伊勢22万石に加増移封され、津藩主となります。 家康は高虎の才能と忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格として重用しました。 外様である藤堂家が譜代として扱われるのは異例のことです。 関ヶ原では同じ様な役割を担った黒田家でさえも外様として扱われています。 その後、徳川の世でも高虎は大活躍しますが、その物語はいずれ別の機会に。 追記 慣れないことをすると疲れますね。(笑) 間違ったとこを書かないようにずっとウィキペディアと自分の記述を見比べていました。
by tikut3
| 2012-02-16 20:00
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